シネ ウィンド。 映画「世界一と言われた映画館」公式サイト

映画「世界一と言われた映画館」公式サイト

シネ ウィンド

解説 アメリカの辺境を舞台に現代社会が抱える問題や現実をあぶりだした「ボーダーライン」「最後の追跡」で、2年連続アカデミー賞にノミネートされた脚本家テイラー・シェリダンが、前2作に続いて辺境の地で起こる事件を描いた自らのオリジナル脚本をもとに初メガホンをとったクライムサスペンス。 第70回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で監督賞を受賞。 主演は「ハート・ロッカー」のジェレミー・レナーと、「アベンジャーズ」シリーズのエリザベス・オルセン。 ネイティブアメリカンが追いやられたワイオミング州の雪深い土地、ウィンド・リバーで、女性の遺体が発見された。 FBIの新人捜査官ジェーン・バナーが現地に派遣されるが、不安定な気候や慣れない雪山に捜査は難航。 遺体の第一発見者である地元のベテランハンター、コリー・ランバートに協力を求め、共に事件の真相を追うが……。 2017年製作/107分/G/アメリカ 原題:Wind River 配給:KADOKAWA スタッフ・キャスト テキサス出身のテイラー・シェリダンが描く世界は、リベラルなハリウッドが見つめにくいアメリカの姿が映し出されている。 『ボーダーライン』ではメキシコ国境の街がいかに危険にさらされているかを描いている。 国境は麻薬戦争の最前線であり、麻薬から国を守るためには法の枠内では対処できない。 法が通用しない世界で正義を執行する、という価値観は西部劇の典型だが、シェリダンの作品には常にこの価値観がある。 アメリカはある種、国際紛争に対してもこうした態度で臨むことがあるが、アメリカは法では裁けない脅威に対して異様に敏感で、超法規的措置に走りやすい傾向がある。 本作の主人公もまた、法の枠内で片付かない悪を暴力で倒す男だ。 それは正しくない、だがそうでもしないと片付かない問題もある。 法の枠内では正しくないが、本当の世界は法が規定する社会よりも広く深い。 シェリダンは、本作を現代のフロンティア三部作の最後と位置づけているそうだが、フロンティアとは未開拓の地であり、そこには法はまだない。 そこでは生ぬるい法に守られた社会のルールは時に通用しないのだ。 主人公のコリーは優秀なハンターだ。 前半は基本的に彼の視点で進む。 驚いたのは、銃撃戦が勃発する終盤。 敵味方が至近距離で撃ち合うこの場面、遠方から狙撃の腕前を発揮する主役の姿は映らず、カメラはひたすら撃ち倒される者たちの姿を追う。 この非凡な演出! 脚本家テイラー・シェリダンが自ら監督も務めた本作は、現代フロンティア3部作の第3弾。 かつての辺境開拓は「より強く、より豊かに」というポジティブな意志と欲望を原動力とする運動だったが、その陰で原住民やメキシコ移民は虐げられ悪者にされた。 シェリダンはそんな辺境の暗部に光を当てる。 コリーはネイティブアメリカンの妻との間にできた娘を悲惨な事件で失った。 だが終盤での狙撃は、復讐や、仲間を救うといった個人的な動機を超えた行為、神の裁きとして描かれる。 だから狙撃手は画面に映らない。 神にすがりたくなるほど辺境の現実は暗澹としている、ということか。 テイラー・シェリダンは、リバタリアニズム系の作家だと思っていた。 リバタリアニズムと「自分のことは自分で決める」という考え方で、国家権力からも可能な限り自由でいるべきだという思想。 イーストウッドが描くヒーロー像や、『アウトロー』でトム・クルーズが演じたジャック・リーチャーをイメージするといいかと思う。 シェリダンが脚本を書いた『ボーダーライン』も『最後の追跡』も、法律に頼らない、もしくは頼れないから、自分自身の倫理観を基準に生きる人たちの映画だった。 『ウインド・リバー』もまた、人間の作った法律など及ばない環境で正義を求める物語だ。 ただ、シェリダンが監督も兼ねた本作は、リバタリアニズムを感じる点は同じだが、人間の力がほとんど意味を成さない極寒の地が舞台であることによって、もはやリバタリアニズム的価値観は思想や信条というより「生きる手段」に近づいている。 彼らを追い詰めるのは、人間や制度だけでなく苛酷な自然でもあるのだ。 この映画が描く、屹立する現実の険しさに、ただ茫然としている。 それだけでも彼の意気込みが伝わってくる。 舞台はネイティブ・アメリカンの保留地。 いつもながらに、登場人物にも増して強烈な「土地」の持ち味がそこに住む人々の人間性を決定づける。 苦しみや悲しみと共に生きる主人公(レナー)、経験は浅くても胸の内に強いものを秘めたヒロイン(オルセン)、二人が巻き起こす化学変化が力強く物語を前に進ませていく。 前作『最後の追跡』と同様、本作もまたアメリカ映画が描いてきた「西部劇」が現代の視座、関係性の元でアップデートされたかのよう。 シェリダンが描きたかったのは、忘れ去られたアメリカの歴史と魂なのだ。 いま彼の作品が米映画界で大きな注目を集める理由もそこにあるのだろう。 C 2016 WIND RIVER PRODUCTIONS, LLC. 「デスカムトゥルー」 C IZANAGIGAMES, Inc. All rights reserved. 「ソニック・ザ・ムービー」 C 2020 PARAMOUNT PICTURES AND SEGA OF AMERICA, INC. ALL RIGHTS RESERVED. 「エジソンズ・ゲーム」 C 2018 Lantern Entertainment LLC. All Rights Reserved. 」 C 2019 Sony Pictures Television Inc. and CBS Studios Inc. All Rights Reserved. 「ドクター・ドリトル」 C 2019 Universal Pictures. All Rights Reserved.

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新潟・市民映画館シネ・ウインド(新潟市)上映スケジュール・上映時間:映画館

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新潟・市民映画館シネ・ウインド CINE WIND 情報 正式名称 新潟・市民映画館シネ・ウインド 完成 開館 開館公演 客席数 64席+車いすスペース 設備 、、 用途 映画上映 運営 有限会社新潟市民映画館(管理) 新潟・市民映画館鑑賞会(運営) 所在地 〒950-0909 新潟県新潟市中央区八千代2-1-1 第二駐車場ビル1階 最寄駅 万代口 最寄バス停 「万代シティ」停留所 外部リンク 新潟・市民映画館シネ・ウインド(にいがた・しみんえいがかんシネ・ウインド)は、のにある(、)である。 1985年12月7日に開館した。 「新潟・市民映画館鑑賞会」という会員制度を持っている。 「有限会社新潟市民映画館」が管理・事務局機能を担い、「新潟・市民映画館鑑賞会」が運営を担当する。 「新潟・市民映画館シネ・ウインド」とは、これら二つの組織の総称であり、劇場名でもある。 代表は齋藤正行、支配人は井上経久 2009年10月より。 2019年(令和元年)12月に開館34年を迎えた。 なお本項では会報『月刊ウインド』や「安吾の会」についても記述する。 シネ・ウインドのこけら落としを飾った映画『アラビアのロレンス』()主演の 1985年(昭和60年)3月、新潟市古町のであるライフが閉館。 『』紙に映画評を連載していた映画評論家のは「ライフ」の閉館を惜しみ、「新潟市民の損失は、はかりしれない」 と記した。 それを受けて、「なくなったら自分たちでつくればいい」と立ち上がったのが、当時印刷会社に勤務していた齋藤正行だった。 市民参加と市民出資による独自の新しい映画館をつくるため、同年5月に「新潟・市民映画館建設準備会」を発足。 映画上映会を開催し、会員数5000人を目標に、1口1万円の会費を呼び掛けた 、同年12月7日、常設の映画館である新潟・市民映画館シネ・ウインドが開館した。 最初の上映作品は『』。 1992年(平成4年)に完成した監督のドキュメンタリー作品『阿賀に生きる』では、シネ・ウインドは制作段階から様々な形で関わっている。 同年には同作の製作記録が、書籍『焼いたサカナも泳ぎだす 映画「阿賀に生きる」製作記録』としてまとめられている。 1999年(平成11年)に公開された監督の映画『』(原作:)の製作にあたっては、シネ・ウインドが重要な役割を果たした。 『白痴』製作に関わった人々の動きは、「白痴」の記録編纂委員会によって書籍『映画が街にやってきた「白痴」制作・新潟の2000日物語』(新潟日報事業社発行)としてまとめられている。 映画『白痴』は、1999年(平成11年)10月30日から翌2000年9月1日までの44週にわたって シネ・ウインドで公開された。 安吾の没後60年やシネ・ウインドの開館30年目にあたる2015年(平成27年)2月、シネ・ウインドで開催された「安吾映画祭2015」において、35mmフィルムで『白痴』が上映された。 2005年(平成17年)11月1日には、新潟日報社が主催する新潟日報文化賞を受賞した。 2007年(平成19年)には『月刊ウインド』250号を記念し、新潟県の映画館史と観客の記憶を集大成した『街の記憶 劇場のあかり 新潟県 映画館と観客の歴史』を編集・発行した。 2012年(平成24年)11月23日から2千万円を目標として、「設備募金プロジェクト」を実施した。 2013年(平成25年)3月31日の募金活動終了までに1931万8637円の募金を集め、この資金によって同年6月29日、の上映をスタートした。 なお、35mmフィルムの上映環境も維持している。 2015年 平成27年 9月4日・5日、「全国コミュニティシネマ会議2015in新潟」を、一般社団法人コミュニティシネマセンターとともに開催した。 2016年 平成28年)シネ・ウインド31周年祭実行委員会では を中心とした大学生スタッフにより、キネマ談話室、月ムビなど映像による情報発信に取り組んだ。 館内ロビーへのデジタルサイネージ設置、YouTube ライブ配信機材の導入など、機器・設備のデジタル化が進んだ。 2017年(平成29年)、ルキーノ・ヴィスコンティやアンドレイ・タルコフスキー、ジャック・ドゥミなどの名匠回顧上映を開催。 完成25年を迎えた「阿賀に生きる」を中心とした では、最新デジタルデータと2000年前後のビデオコンテンツ、16ミリ&35ミリフィルムなど多様な上映と多彩なゲストで全国から多くのファンが訪れた。 2018年(平成30年)8月から12月まで「」を実施した。 映画鑑賞環境の充実 (劇場内外の仕様変更、副音声および日本語字幕付き上映など)を目指したもので、新潟市民を中心とした全国の映画ファンなどから800万円を超える寄付が寄せられ、同年に「スクリーンの張替え」「外観照明のLED化」「副音声対応上映の増加」などを行った。 2019年(令和元年)7月に劇場シートを刷新、フランス・キネット社製シートを新潟市内の映画館で初めて導入した。 同年8月、営業者モデル事業()に採択、認知度&集客力向上を目的として「Webサイトリニューアル」「来館スタンプ設置」「フリーペーパー配布」などを行った。 運営 [ ] 運営は会員の手により行われている。 会報『月刊ウインド』の編集・発行、上映作品の選定をはじめ、映画関係の資料の保管・管理などに会員の有志が活動している。 毎年11月には「周年祭」が開かれる。 シネ・ウインドは、発足時から市民一人ひとりが参加する「会員制度」を運営の基盤に置く。 公式ホームページには「どこからもバックアップのない民間団体であり、入場料収入や年会費で成り立っており、会員制度は大きな支えです」と書かれている。 会員は上映作品を「会員価格」で鑑賞できるだけでなく、運営に関するさまざまな活動に、スタッフとして参加できる。 毎月第2火曜日に、「月間ミーティング」(運営に関する検討)を行う。 なお、9月の第2火曜は年度ごとの活動総括、新年度の方針を討議する、「新潟・市民映画館鑑賞会総会」として開かれる。 映画・俳優・芸術などに関する約2万冊の書籍、上映作品などのパンフレットが所蔵されている。 会員に対する貸し出しも行っている。 特色 [ ] 月刊ウインド [ ] 「新潟・市民映画館鑑賞会」が発行する、「シネ・ウインド」の会報。 毎月1日発行。 編集は会員スタッフで構成する『月刊ウインド』編集部が担当。 会員に配布されるほか、新潟市内の書店などでも販売されており、会報であるとともに映画館の広報ツールともなっている。 「シネ・ウインド発 文化フォーラムマガジン」と題し、上映スケジュール、作品紹介のほか、イベントのレポート、映画にとどまらない幅広い内容となっている(大阪の支配人・恩田雅和やコラムニスト・も、連載エッセイを寄稿)。 創刊は1985年11月14日と、映画館のオープンよりも早かった。 創刊時はB5サイズ16頁。 少しずつページが増え、現在はB5サイズ32頁。 毎年11月号は周年祭特集号として増ページ。 安吾の会 [ ] 安吾の会(あんごのかい)は、新潟市出身の作家・を偲び、その世界観を後世に伝えることを目的に、1987年に結成された。 シネ・ウインド代表の齋藤正行は同会の世話人代表を務めており、会の事務局は「シネ・ウインド」内に置かれている。 会報『安吾雑報』を編集発行。 また不定期に「安吾探索ノート」を刊行している。 毎年10月に新潟市で開催される「坂口安吾生誕祭」には、実行委員会の一員として運営に関わっている。 また、安吾の命日である2月17日には、毎年東京都内と新潟市秋葉区(旧新津)ほかで「安吾忌」が開かれるが、新潟市での「新潟安吾忌」は、同会が主催している。 その他 [ ]• シネ・ウインドは、映画はもちろん、文化や街づくりなど、非営利事業を積極的に進めている。 関わりのあるもの(関わりのあったもの)を挙げると、 にいがた国際映画祭、にいがた映画塾、にいがたロケーションネットワーク、コミュニティシネマ長岡、新潟市青年ネットワーク、にいがた花絵プロジェクト、新潟若手商人塾、新潟NPO協会、自殺防止に関わる有志による冊子「死ぬな!」の発行(編集長は齋藤正行)、「まちなかの文学を歩く会」、「舞踊家井関佐和子を応援する会 さわさわ会」、など。 開館記念月は12月だが、その前月にあたる毎年11月に、「周年祭」を開催している。 期間中は特別プログラムが上映されるほか、市内のホテルでパーティーを開き、各方面で活動する人々の交流の場となっている。 2013年 平成25年 12月、Niigata Interview Magazine LIFE-Mag. vol. 007【新潟・市民映画館 シネ・ウインド編】が発行。 シネ・ウインドができるまでを記録した「シネ・ウインド日記」 2004年発行『別冊・あ・の・ね』掲載 が再録されているほか、編集人・小林弘樹がシネ・ウインドの立ち上げから現在までを取材している。 脚注 [ ]• 「荻昌弘の週間映画館」『新潟日報』1985年3月2日、朝刊、11面• 2016年2月1日閲覧。 『新潟日報』2000年9月8日、朝刊、14面• 『月刊ウインド』2015年2月号、p. 『月刊ウインド』別冊「私たちはいかにしてデジタルシネマ化を成しとげたか」pp. 3-4、p. 『月刊ウインド』別冊「私たちはいかにしてデジタルシネマ化を成しとげたか」表紙、pp. 9-10• 一般社団法人コミュニティシネマセンター• 公式ホームページ内、「シネ・ウインドとは」より• 『街の記憶 劇場のあかり 新潟県 映画館と観客の歴史』、齋藤正行による「はじめに」より 外部リンク [ ]• 港町キネマ通り.

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【ウィンズスコア】吹奏楽で日本を元気に!

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「西の堺、東の酒田」と称された商人の町・山形県酒田市に、映画評論家・淀川長治氏が「世界一の映画館」と評した伝説の映画館、グリーン・ハウスがあった。 回転扉から劇場に入ると、コクテール堂のコーヒーが薫り、バーテンダーの居る喫茶スペースが迎える。 少人数でのシネサロン、ホテルのような雰囲気のロビー、ビロード張りの椅子等、その当時東京の映画館でも存在しなかった設備やシステムを取り入れ、多くの人々を魅了したそこは、20歳の若さで支配人となった佐藤久一が作り上げた夢の映画館。 だが、多くの家屋や人々に被害をもたらした1976年の大火災・酒田大火の火元となり、グリーン・ハウスは焼失してしまう。 それから40年余りの時を越えた今、「ムーンライト・セレナーデ」が流れるあの場所へかつて集った人々が、煌めいた思い出をもとに言葉を紡いでいく……。 2018年2月に急逝した名優・大杉漣氏のナレーションにのせて贈る、忘れ難い場所を心に持つ人々の証言集。 佐藤 久一 1930年、山形県酒田市出身。 日本酒醸造元「金久酒造」を経営する名家で生まれ育つ。 20歳で大學を中退し、父が経営していた映画館「グリー ン・ハウス」支配人に就任。 就任当時業績不振だった「グリーン・ハウス」を上映作品の吟味、新たな映画作品をかける度に「グリーンニュース」(後のグリーンイヤーズ)という無料の小冊子の発行、古い建物を大改装する等努力を重ね、洋画専門館として知る人ぞ知る存在となっていく。 中でも、映画評論家の淀川長治氏と荻昌弘氏は繰り返し足を運んでおり、淀川氏は「グリーンイヤーズ」の300回記念号で「私の拍手」というタイトルの原稿で「こんな館を持つ酒田が羨ましい」と絶賛している。 また、1963年の週刊朝日では「あれはおそらく世界一の映画館ですよ」と淀川氏が記したことにより、全国的に「グリーン・ハウス」の名前が知れ渡ることとなった。 Staff 1951年、徳島県出身。 74年に太田省吾率いる転形劇場に入団。 「水の駅」をはじめ一連の" 沈黙劇シリーズ" などで演技力を磨く。 80年、高橋伴明監督の『緊縛いけにえ』で映画デビュー。 88年の転形劇場解散後も舞台、映画、TVへの出演を続ける中、北野武監督作『ソナチネ』(93)のヤクザ役で注目を浴び出演作が増え、北野監督の『HANA-BI』 97 や『犬、走る DOGRACE』(98 /崔洋一監督)などの演技でキネマ旬報、ブルーリボン賞、日本アカデミー賞など多数の助演男優賞を受賞。 以降は映画、テレビドラマに欠かせない名脇役として、また時には主演俳優として、超大作から学生の自主映画まで幅広く活躍。 2018年2月、惜しくも急逝。 主な出演作に『ポストマンブルース』(97/SABU 監督)、『エクステ』(07/園子温監督)、『ネコナデ』(08/大森美香監督)、『蜜のあわれ』(16/石井岳龍監督)、『シン・ゴジラ』(16/庵野秀明・樋口真嗣監督)、『アウトレイジ 最終章』(17/北野武監督)、『恋のしずく』(瀬木真貴監督)など。 2018年10月6日より主演・プロデュース作品『教誨師』(佐向大監督)が公開。 2013年の山形放送開局60周年記念ラジオドキュメンタリードラマ「港町の幸福な昭和〜日本一と世界一を酒田から発信した男〜」への出演がきっかけとなり、本作へのナレーション参加につながった。 監督・構成・撮影:佐藤 広一 1977年生まれ、山形県出身。 1998年、第20回 東京ビデオフェスティバル(日本ビクター主催)にて、短編映画「たなご日和」でゴールド賞を受賞。 監督作に、「隠し砦の鉄平君」(株式会社BBMC)、DVDドラマ「まちのひかり」(特定非営利活動法人 エール・フォーユー)がある。 ドキュメンタリー映画「無音の叫び声」(16/原村政樹監督)、「おだやかな革命」(17/渡辺智史監督)、「YUKIGUNI」(18/渡辺智史監督)では撮影を担当。 監督を引き受けて取材を重ねていくうちに、「これは短編に収まるような題材ではない」ということに思い至り、長編化を提案しました。 映画祭の高橋卓也プロデューサーが快諾してくれたこともあり、取材は続きました。 その後も取材先で元チケットガールの山崎英子さんを紹介してもらうなどの幸運に恵まれました。 私自身、もちろん酒田に伝説の映画館があった、しかも大火の火元になったということは知っていました。 しかも山形の映画関係者に大きな影響を与えているということも。 この機会にきちんとまとめなければいけない、という思いを強くしました。 映画祭事務局でも地元新聞社を通じて当時の資料募集を呼びかけるなど、この映画制作に大きな期待を寄せてくれました。 「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」(講談社刊)の著者・岡田芳郎さんからは何度もアドバイスを頂き写真も提供して下さいました。 さらには名優・大杉漣さんがナレーションを引き受けてくださるという大きな幸運にも恵まれました。 酒田と大杉さんとのつながりが、山形放送のラジオ番組で既にあったこと。 大杉さんと懇意にしているシネマ・パーソナリティーの荒井幸博さんが山形にいたこと。 16年前、大杉さんが主演する自主映画に私がスタッフで参加していたこと、などの巡り合わせがあって実現にこぎ着けられたように思います。 ナレーション収録時に大杉さんから、「心ある丁寧なドキュメンタリー作品」と本作を評して頂き、ここに辿り着くまでの過程を労ってくれました。 いま思い返しても、感謝の思いでいっぱいです。 「実は酒田には、まだグリーン・ハウスが存在しているのではないか」と思わせるほどの鮮明な記憶と愛情に満ちた証言の数々が、この映画には収められています。 Speakers• 井山計一 1926年(大正15年)生まれ 日本を代表するカクテル「雪国」を考案した伝説のバーテンダー。 土井寿信 1956年(昭和31年)生まれ グリーン・ハウスで「タワーリング・インフェルノ」を2回観た元消防士。 「消防士として頑張ろう、と思わせてくれた映画館が大火の火元になったのは、残念で因果的な出来事でした」• 佐藤良広 1958年(昭和38年)生まれ 映画サークルあるふぁ'85 「バレーボール部だったんです。 部活がおわったらすぐ、グリーン・ハウス!」• 加藤永子 1949年(昭和24年)生まれ かつてグリーン・ハウスに通いつめた映画ファン。 「グリーン・ハウスに朝から行って夕方まで、何回も同じ映画をぐるぐる観てました」• 太田敬治 1931年(昭和6年)生まれ 元 グリーン・ハウス映写技師。 「スクリーン脇にその日の映写担当者の名前を出したのは、この辺じゃ初めてじゃないかな」• 近藤千恵子 1949年(昭和24年)生まれ ティーギャラリー サライ経営者。 「酒田はグリーン・ハウスで出していたコクテール堂の珈琲豆を、町内のお店でもみんな使っている不思議な街」• 山崎英子 1933年(昭和8年)生まれ 元 グリーン・ハウス従業員(チケットガール)。 「スクリーンの前いっぱいに生花を飾ったり、あそこまでお金をかける映画館はなかった」• 白崎映美 1962年(昭和37年)生まれ 歌手(白崎映美&東北6県ろ~るショー!!) 「グリーン・ハウスは憧れの場所。 いまでもお洒落で高級だったイメージがある」• 仲川秀樹 1958年(昭和33年)生まれ 日本大学教授・博士(社会学) 「東京、酒田同時ロードショーというのは、(当時)地方都市に住む高校生としては、ある種の誇りというか、プライドのようなものがありました」 Keywords 酒田市 山形県の北西にある人口約11万人の市。 庄内北部の都市である。 庄内空港と山形県唯一の重要港湾酒田港がある。 この地には平安時代朝廷が出羽国の国府として築いたと考えられる城輪柵跡があるように、地域の歴史は古い。 酒田の街は袖の浦(現酒田市宮野浦)に移り住んだ奥州藤原氏の家臣36人が、1521年頃最上川の対岸に移り、砂浜を開拓し作ったと言われる。 袖の浦は中世には貿易の中継地だった。 1672年、河村瑞賢が西廻り航路を整備すると、酒田はますます栄えるようになり、その繁栄ぶりは「西の堺、東の酒田」ともいわれ、秋田の外港土崎湊と並び、羽州屈指の港町として発展した。 日本永代蔵に登場する廻船問屋の鐙屋(あぶみや)や、戦後の農地改革まで日本一の地主だった本間家などの豪商が活躍し、町は三十六人衆という自治組織により運営されていた。 元禄2年6月13日(1689年7月29日)に松尾芭蕉が奥の細道で訪れている。 酒田大火 1976年(昭和51年)10月29日に山形県酒田市で発生した大火。 この火災で酒田市中心部の商店街約22万5000m2を焼失した。 一般市民に犠牲者は無かったが、酒田地区消防組合の消防長1名が殉職した。 戦後4番目の大火である。 「グリーン・ハウス」が火元となり、すぐに観客20名は避難したが当日の酒田市は風が強く、またたく間に隣接していた木造ビルや木造家屋に燃え広がった。 日付が変わった30日の午前3時には火勢は新井田川まで迫ったものの、対岸からの直上放水実施や降雨の影響で延焼を食い止めることが出来たことにより、午前5時に鎮火した。 ムーンライト・セレナーデ ジャズのスタンダード・ナンバーのひとつ。 1939年にトロンボーン奏者のグレン・ミラーにより作曲されたスウィング・ジャズの代表曲のひとつであり、グレン・ミラー楽団のバンドテーマとなっている。 オリジナル・アレンジはクラリネットをフィーチャーしたビッグバンドのスローナンバーであるが、のちに様々なアレンジで多くのバンドによりカバーされている。 映画『スウィングガールズ』 04/矢口史靖監督 の演奏シーンにも登場した。 コクテール堂 戦後間もない1949 年に虎ノ門にオープンしたコーヒー豆の焙煎メーカー。 現在は東京・虎ノ門の本社、山梨・韮崎の焙煎工場で日本で唯一のエイジングコーヒーを製造・販売している。 父に同行してロシア人宅に滞在したとき、創業者の林玄は毎朝飲むオールド・ビーンズコーヒーの虜となる。 帰国して終戦を迎えた玄はそのコーヒーを商売にしようと思いたち、後のエイジングコーヒーが誕生した。 山形国際ドキュメンタリー映画祭 1989年に山形市政100周年を記念して第一回が開催され、当時、山形県上山市牧野村で活動していたドキュメンタリー映画監督の小川紳介監督が準備段階から関わり、山形県内各地の有志が参加。 以降隔年で山形市で開催し、国際交流基金による2006年度国際交流奨励賞・文化芸術交流賞受賞。 ドキュメンタリーのための映画祭ではアジア地域で初のもので、アジアを中心に世界中の映画作品や監督が集まる交流の場となっている。 コンペティションは、インターナショナル・コンペティション部門と、アジアのドキュメンタリー作品を対象としたアジア千波万波部門がある。 ・ 有楽町スバル座とグリーン・ハウス 昭和20年代、娯楽に飢えた日本人は争って洋画を観た。 衣食住すべてを失った大衆にとってそこに描かれた物語だけが希望であり、救いであったからだ。 アメリカ映画を観た人々は「自由と豊かさの象徴」としてのアメリカに憧れ、いつかスクリーンの中のような暮らしをしたいと夢を膨らませた。 映画館は娯楽の伝道であるばかりでなく、人々に前に向かって進むエネルギーを与える役割も果たしていたのである。 戦後、日本人が洋画を観られるようになったのは、1946年(昭和21年)1月にアメリカ映画輸入のためのセントラル映画社(CMPE)が、GHQの外郭団体として設立され、同年2月28日に、『キューリー夫人』と『春の序曲』が、封切り館で公開されてからである。 当時、映画館は常に超満員状態で、入館のために長時間行列をすることや立ち見になることは当たり前であり、客席に入りきれない人々が廊下で辛抱強く次の上映回を待つ光景も、珍しいものではなかった。 そこで、東京・有楽町の駅前に1946年(昭和21年)の大晦日に、アメリカ映画封切り館として開館したスバル座は一計を案じ、翌年3月、「帝都唯一のロードショウ劇場」という謳い文句で、装いも新たにスタートしたのである。 スバル座は全館座席指定、各回入れ替え制という新システムを導入した。 これが予想以上の人気を呼び、入場料金は25円(一般映画館は10円)と割高だったが、人々は映画をじっくり楽しむために高い料金を払うことを厭わなかった。 当時、映画館とは流行発信基地であり、とくにアメリカ映画を観ることは、最新情報を仕入れるために必要不可欠なことだったからである。 スバル座の入り口は、広い階段を上った先のアプローチスペースの突き当たりにあり、ベージュ色のモダンな外装とシンプルな内装がアメリカ的な匂いを発散していた。 スバル座の成功以降、続々と名乗りを上げたロードショウ映画館は、デートはもちろん、お見合いの待ち合わせの場として利用されることもしばしばであった。 グリーン・ハウスは、スバル座とは何から何までおよそ比較にならなかった。 久一は陣頭指揮をとり、グリーン・ハウスの大改装に取り組んでいく。 入り口を回転ドアにしたのは久一自慢のアイディアである。 当時回転ドアは東京や大阪のホテルなどでしか見かけなかったが、そこに久一は目をつけたのだ。 舞台の縁には、季節の花が咲き誇る鉢が上手から下手まで隙間なく並べられ、館内には常に快い花の香りが漂っている。 客席のむき出しの板壁をグリーンの滑らかなビロードで覆うと、グリーン・ハウスは見違えるような豪華な空間に変身した。 あるとき久一は、開映のベルの代わりに「ムーンライト・セレナーデ」を流すことを思いつく。 場内の休憩時間表示が10分から5分、4分と変わっていくとムーンライト・セレナーデが流れだし、その音量が次第に小さくなるのに合わせて、グリーンの緞帳が静かに上がる。 ステージ右端の生け花と左端の白い女性の像のスポットライトだけが残り、それも消えるとレースの幕がするすると開き、スクリーン上に映画が映し出される。 酒田の人々に映画を最高の状態と雰囲気で観てもらうことに、久一は心を砕き続けたのである。 日本で初めて「ロードショウ」という単語を使用した映画館とされる。 アメリカ映画を数多く上映し、客足を集めたが、1953年(昭和28年)に火災で焼失してしまう。 それから13年後の1966年(昭和41年)に現在の「有楽町スバル座」として復活を果たす。 「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」でタランティーノが描こうとしている世界観は、まさにこの映画と同じで、当時の酒田市の情景と一致します。 単なる古き良きシネマの時代というノスタルジーだけでなく、そのことで人生が変わった人たちの物語です。 映画が単なるコンテンツではなく、コーヒーの匂い、ビロードの質感、揺れる柳の木、そんなものをひっくるめた街や人生も呑み込んでしまうような象徴だったんだと思います。 ふと我に返ると、自分自身も田舎で育って、お小遣いを握りしめて、映画館へ足を運び、喫茶店に入ってパンフレットを貪るように読んでいました。 酒田の物語を観ながら、自分自身の記憶を旅できる作品でした。 三宅伸行(映画監督) 戦後10年という昔の話ですが、「グリーン・ハウス1年無料券」を懸賞で当てた父は、何とか妻と喜びを分かち合いたく「半年2人無料券」にしてもらえないだろうかと無茶をお願いし、叶ったそうでした。 その粋な計らいで、僕と妹を子守りに託しては、何とも幸せな映画館デートが続き、その後間もなく白血病を発症した父の、何よりの思い出となったようでした。 更にそれから14年経ち、僕はヨーロッパの西の果て、リスボンの国立歌劇場でデビューの時を迎えました。 長いカーペットのエントランスを抜けると、これまた深紅のビロード張りの客席とカーテン。 日本には無い、典型的な昔ながらのオペラハウスでの、いきなりの主役です。 もしグリーン・ハウスに通ったあの頃がなければ、異文化に圧倒されて、たじたじとなったに違いありません。 ヨーロッパの伝統的な劇場を模した、あのグリーン・ハウスにそっくり、となつかしさに包まれながら、大勢のキャスト、合唱、オーケストラ、全員ヨーロッパ人の中で、臆することなく「トゥーランドット」のヒーロー役、カラフ王子を歌い切ることが出来たのです。 今でもグリーン・ハウスは、ふるさと酒田の豊かな文化の象徴として、僕の中で燦然と輝き続けています。 市原多朗(酒田市名誉市民・オペラ歌手) 地方の町にとびきり洒脱な文化の薫りをもたらし、こよなく愛された映画館が、町じゅう灰燼に帰すほどの大火の火元となってしまった悲劇。 だが、焼失から40余年を経て今もなおいきいきとこの劇場の麗しき記憶を語る人びとは、申し合わせたようにその悲劇の核心に言及しない。 映画と音楽と珈琲を愛した粋人が、凝りに凝った劇場を興し、もてなし心をこめて地元の人びとに贈り届けたココロの宝物。 その蓄積は、大火が奪ったモノの数々よりもかけがえのないものだったということを、この沈黙が雄弁に物語る。 そしてそこが、この穏やかに進行するドキュメンタリーの紙背にひそむ、最もドラマティックなところなのである。 樋口尚文(映画評論家・映画監督) 素晴らしい映画館がかつて山形の酒田にあった。 そこで最後に上映されていた映画は大傑作『愛のコリーダ』ともう一本『グリーンドア』。 私はカナザワ映画祭で見た。 グリーン・ハウスで最後に見た映画が『グリーンドア』だった人もいるはずで、世界一の映画館で見た最後の映画が、世界一つまらないポルノ映画だった人の気持ちを思うと、たまらないものがある。 『グリーンドア』には時間とお金を返せという気持ちしかなかったのだが、こうしてグリーン・ハウスの映画で振り返る機会があり、数奇な縁を感じた。 映画も映画館と同じく素晴らしかったです! 映画館が映画になるなんて『ニュー・シネマ・パラダイス』みたいですね! 古泉智浩(漫画家) Theater 北海道・東北 都道府県 劇場名 電話番号 公開日 岩手県 019-622-4770 上映終了 青森県 0178-38-0035 上映終了 宮城県 022-728-7866 上映終了 山形県 023-665-1166 上映終了 山形県 0238-24-3300 上映終了 山形県 0235-68-1661 上映終了 福島県 024-533-1515 上映終了 関東・甲信越 都道府県 劇場名 電話番号 公開日 千葉県 047-305-3855 上映延期 群馬県 027-388-9649 上映中止 東京都 03-6240-8480 上映終了 東京都 03-3212-2826 上映終了 埼玉県 048-551-4592 上映終了 東京都 042-525-1251 上映終了 東京都 03-3762-6000 上映終了 東京都 0422-27-2472 上映終了 神奈川県 046-240-0600 上映終了 神奈川県 045-341-3180 上映終了 埼玉県 049-223-0733 上映終了 茨城県 029-212-7531 上映終了 栃木県 028-633-4445 上映終了 長野県 026-235-3683 上映終了 新潟県 025-520-7626 上映終了 新潟県 025-243-5530 上映終了 長野県 0268-22-0269 上映終了 中部・北陸 都道府県 劇場名 電話番号 公開日 愛知県 052-733-3959 上映終了 石川県 076-220-5007 未定 近畿・中国・四国 都道府県 劇場名 電話番号 公開日 大阪府 06-6302-2073 上映終了 京都府 075-353-4723 上映終了 兵庫県 078-366-2636 上映終了 広島県 082-231-1001 上映終了 九州・沖縄 都道府県 劇場名 電話番号 公開日 鹿児島県 099-222-8746 上映終了 大分県 0973-24-7534 上映終了 福岡県 092-751-4268 上映終了 佐賀県 0952-27-5116 上映終了.

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